| 年末&年頭の辞〜2005&2006〜
〜思考試行錯誤〜 |
激動の2005年が終わります。 ?・・・ ’05年でいいんだっけ? だんだん年がわからなくなってきている。 ’04年じゃないよね?終わるのは2005年ね? 我ながらいかに社会が自分にとってどうでもいいもんかがよくわかる。 とにかく何が激動だったのかは人それぞれ。 凶悪犯罪も大事故も異常気象もとにかく何もかも「激動」ネタになるところが いかにも末法の思想だ。 そういう問題に関わってしまった人たちのプライバシーへの配慮に少し気を回しただけで だいぶん減ると思うけどなーいわゆる”激動”報道。 私の中の激動といえば、 自分の中のちょっとしたセンサーにかぶっていた埃が払われたことを実感したり、 心身ともに肩の力の抜き方が少しうまくなったり、 蝋燭をつけている時間が増えたり・・・ 積み残した大量のガラクタの中で 足元がほんの少し、ほんの5センチぐらい去年から進んだかもしれんな と感じることができた一つ一つの気づきかな。 あの時もう少しこんなふうな言葉を使えばよかった、とか あの低級な言動はもっと早く振り払っとくべきだった、とか あそこまで気を使ってバカをみることはなかった、とか キリは無いけれど 確かに記憶を辿れば、365回分明けたり暮れたりしてきていて 重ねた実感のぶん 多少は次にいけそうな気もするので たぶんあたしはちゃんと次にいけますよ、と言い聞かせることにしよう。 あたしは実は生真面目すぎるんだということも分かったし。 たぶん小さいときの方がその自覚に近いものはあったのだと思うけれど そういうふうに見られることがイヤでイヤで あのキツ過ぎる抑圧が私をそういうふうに見せてしまっているだけだと そこから抜け出そうとばかりしていて 確かに、親を含めた浅はかな表面分析タイプというか外側絶対主義的な人たちからは かなり見下され罵倒されるほどに変身を遂げてきてはいたので なんとなくもうそういうふうになりきれたといつからか思っていたけれど やっぱりあたしはどっかものすごく抜け出せない生真面目さを持っていると最近指摘され それは確かに生まれたときからある環境の抑圧のなせる業ではあったのだろうけれど それをきちんと受けて心の中にきちんと生真面目さを養ってしまったというところを直視すれば それはもうただの自分の生来の性質として認めるしかないのだなぁという認識に至り、 半分ビンボーくじ、半分あきらめを やっと自覚した。 年の瀬になって。 人生、目標が無いのはいけないしとか ビジョン持ってないなんてポジティブに生きられないよとか なんとなく、ある種の風潮として 先のことを思い描くことが強迫観念のようになっているというか なんていうか、たとえるならば 体のために深呼吸が大切だからっていうだけで 無知なあまり集団で過呼吸になってしまっているような なんかそんな気がする昨今。 社会全体うまくいってなかった過去を消化しきる前に 次から次に目標を上乗せしていっているもので 指摘するひとがいない、というか 指摘しちゃいけないことになっているというか。 忘れるっていうのはすごく大事なことだけれど 水に流しっぱなしというのにも罪は生じる。 次の世代に何の成長の足跡も残せないことは大きな罪であろうし。 社会としても。個人としても。 一人一人を見ていても苦い経験を次の意識に役立てている者とそうでない者との差は歴然としている。 ましていわんや、社会全体をや。 養老猛司さんが、人間が生きている中の日常の一部であったはずの「死」が 非日常的な特別なものに追いやられるに至ってしまった現代社会の端的な始まりとしての記号の一つは 自分の出した排泄物が瞬時にして目の前から消えてってしまう「水洗トイレ」だ、 っていうようなことを話していたけれど 多かれ少なかれ私たち一人一人はトイレの外でも 自分の日常の中の排泄物を瞬時に水に流しては 新年の干支をあしらっためでたげな飾りなんかを目にして ちょっと和風なしきたりの名残に浸って あーもーー次いきましょよ、 なんて程度で見栄えの良い目標ばかりを また上乗せしていくだけなんだな。ぐらぐらの土台に。 いっせいに前だけを向いて視野を狭くしてしまっている なんとかの高上がり的な目の置き方ではなく バカがつくほどに生真面目な人間としては 過ぎてきた時間を堅実に振り返り振り返り 大掃除の時季を過ぎてもときに大掛かりな片付け物をしつつ とぼとぼと歩を進めるしかないな、と思います。 2005年年末にあたって。 2006年の年頭の辞も兼ねて。 つまり、もう歌わなくていいほどに ほんとうにしあわせになりたいってだけだ。 お正月には自分でお雑煮を作ってみようと思うとります。 博多は焼きあごの出汁デス。 2005.12.30 |