| 500万年ぐらい早い 〜思考試行錯誤〜 |
| 『水は答えを知っている』(江本勝著、サンマーク出版 1,2巻)という本がある。好き嫌いが分かれるところかもしれないが、距離を保っていられれば良い味を感じられる本だと思う。様々な状況下で採取した水の結晶写真を紹介した本で、自然界の湧き水や美しい景色の中の湖水は美しい結晶を成すが、人の手の加わった水道水や電子レンジにかけた水は結晶が乱れたり結晶することすらなかったりするという。なるほど。名水と名のつくペットボトルに金を払うことへの抵抗感がますます薄れる良い証拠写真が並んでいる。更に話は続く。 ビンの中に入れてクラッシック音楽を聴かせたり数々の言語の「ありがとう」という言葉をかけたりした水は、自然界の湧き水同様美しく結晶するが、ヘビーメタルを聴かせたり「ばかやろう」などの言葉をかけたりした水はうまく結晶できないらしい。対照的な写真が並ぶ。音も声も振動である。その波動を水が吸収し、結晶に反映されるのだという。著者は、様々な物質を溶かし込む性質を持つ水は言葉をわかる感覚をも持っているのだ、と解釈を広げる。それが太古においては言霊として認識されていたものなのだ、と。そして、話はまだ続く。 言葉を声に出して聞かせるのではなく、文字をワープロで打ってビンに貼り付ける、という方法で「見せた」水までが同様に反応するという。つまり「ありがとう」を見せた水は美しく結晶し、「ばかやろう」を見せた水は・・・・・ 言葉を研究対象とする言語学では、言葉の音(それを表すもの)と意味(それによって表されるもの)とのむすびつきは恣意的であるということを大前提としている。たとえば「ニャ〜と鳴くくねくねした四足歩行の哺乳類」を「ネコ」という音で呼ぶ必要は世界のどこにも無い、ということだ。ニャ〜という実際の鳴き声をまねた擬声語等の類は別として、日本語の体系において「ネコ」という音が指している動物については、ネコと呼ばずともコネと呼ぼうがキャットと呼ぼうがニョロリと呼ぼうが、それぞれの協同体の中での約束が成り立っていさえすれば、別になんでも構わないわけだ。こういった立場からすると、複数の言語における「ありがとう」や「ばかやろう」がそれぞれ共通した性質をもって機能するなどという発想はまったく空想めいた、非科学的なものだということになる。しかしなにごとも、即否定してしまうのはあまりに簡単でかつ非生産的でもある。現時点で馴染みの無いことは否定していれば確かに現状維持はできるかもしれないが、そして楽なのだろうが、それではアタマも空気も硬直していくだけである。 この本で紹介されていることは今はまだ正式に科学的であるとは認められていないと著者も認めている。そのうえで、この本の中の写真で我々は全ての物質が波動を持って影響しあうことで起こる宇宙の真理の一端を見ているのだ、と述べる。そうなのかもしれないと私も思う。 ただ、そうは言いつつも、この本は現象の解釈や説明がやけに個人的、感傷的で、いわゆる科学らしさといえるようなイメージから自ら遠のいている嫌いもあり、まあそれが奇妙な味になっているのだろうと私には思えるが、好き嫌いが分かれそうだと述べた理由の一つでもある。 例えばバランスのとれた六角形の結晶ができた、できなかった、というのは確かな事実の一部ではあろうけれど、それを決定づける因子として言葉の奥底に共通して潜む言霊の波動にまで思いを馳せるわりには事象の捉え方があまりにあっさりしすぎている。どんどん突っ込みどころ満載になっていく。始めに挙げたように、水が美しく結晶する要因である「ありがとう」の言葉やクラッシック音楽は「よい」ものとして括られ、「ばかやろう」やヘビーメタルは人を罵る「わるい」ものとして何の疑問も無く一つに括られてしまっているわけだが、純粋な心で魂の叫びを演奏するヘビーメタルもあろうし、コンテストで人に勝つことしか考えてないような腹黒い「G線上のアリア」もあろうに、そのいったいどちらのどのへんが悪かったり良かったりすることになるのか。電子レンジのマイクロ波は結晶を乱れさす「わるい」因子なのだが、「『よい』テレビ番組を見せた」水は美しい結晶を結ぶという。「よいテレビ番組」って、何? とにかくそんなこと、この著者は微塵も考えていず、なのに堂々と出版に至ってしまえているその無防備さと大胆さは、少なくとも私には無い。まあだからこそこの危なっかしい感覚はやや捨てがたくもあるのだが。さらにはエルビス・プレスリーの「ハートブレイクホテル」を聴かせたら結晶が乱れて二つに割れたような形のものができてしまった、「これではほんとうにハートブレイクですね」とコメントしてしまう。不意を突いて笑わせてほしい人にはおすすめするが、嫌いな人はここまで読んで苛立つ気力も出ないほどに力無く無視したくなるところかもしれない。 しかし、それでもなお非科学的であるとしてこの本を全否定してしまって得になることは別に無い。そもそも科学的であるということはそれほど絶対的に正しいことか?「おばけは非科学的だから信じない」という人がいるが、それは言い換えれば「おばけというものは“現時点で反証可能な説明方法が見つかっている領域”外のものなのでそれについての一切の判断を放棄する」と言っているにすぎない。 私自身、上に述べた「言語の恣意性」という概念については授業で口にすることだが、歌を聴いている時にはそれとまったく矛盾しているといわれかねない感覚がリアルになることが少なからずある。 音と意味とが恣意的に結びついた言葉、即ち歌詞に、さらに恣意的にメロディがかぶさって歌になっているわけだが、しかし時々、もうこの歌のこの部分にはこのメロディしかありえない、そしてその歌詞としては、もうこの意味とこの音でできあがっているこの言葉しかありえない、と感じさせる自然さに出会うことがある。このフレーズはとにかく始めからそこに在ったのではないか、と感じる瞬間である。だからこそ自然に人の心に入りこんで残り、ときに歌い継がれるということがあるのだろうともよく思う。そして、歌を聴くときも歌うときも、自分が身につけてきた言語についての理屈とこの必然性は矛盾せず統合されているのがわかる。 目に見えないこと、実証できないことを非科学的だなどと吐き捨て、切り捨ててしまう態度、あるいは自分が常識だと決めている範囲外のことをすべて間違いだとしてしまう態度は、ともすると積み重ねてきたことに自信のある人、自分の専門をしっかりもっているという意識のある人にこそ起こりがちなことでもある。その偏狭さをもってオノレの領域外に身をおく他者までをなぜか大上段に振りかぶって否定していってしまう役人や研究者も時々いて迷惑するが、それはむしろ自分の守備範囲の狭さのアピールにこそなれ、本当に知恵を働かすことのできる人間の態度とはいえまい。 なまじ人間の知識など高が知れているということ、そして個々人が物事を判断するために使いこなせる知識の量などさらにそのごくごく一部でしかないということを常に意識の隅に置いておくことは、義務教育でもない大学にまで入って何かを吸収しようとしている立場にある者がその専門性を高めていく過程で必ず身につけていかなければならない必須事項である。 一方的に他者をさっぱりばっさりと否定、批判してしまうことなど、世界の普遍的真理を知っているわけでもない私自身10年も20年も早いとよく戒めているところだが、いや、それどころか、おそらく全人類にしても500万年ぐらいは早かろう。同様にその対極にある優しさや素直さのつもりか確認もせずに何もかも鵜呑みにしてしまう態度も800万年ほど早い。そんなことをしていいのは戦争のやり方もカルト宗教の存在も全ての人間の記憶から消し去ってしまってからだ。 これを読んだからといって、決して坪内先生の試験で問われてもいないところで「言語の恣意性」と答えたりしないでください。答えに困って歌ってすばらしいですよねとかワタシも癒されますとかもっと決して書かないでください。言語道断です。零点です。1000万年早いってやつです。 ![]() 『水は答えを知っている』 江本勝著、サンマーク出版(2001) 第1巻より 2004.11.19(福岡教育大学図書館報) |