アポトーシス |
| 死へ向かうプロセスは、既に遺伝子に組み込まれているものなのだという。 ただただ、生物は次の世代へ自分の遺伝子を残そうとする。 残そうとするものだけが生き残って今の生物群を構成している。残そうとしない質の遺伝子たちは、自分の世代だけで絶えて、淘汰されてきただけだ。 自分自身の肉体的な特徴でいけば、私も親の遺伝子を確かに感じる。 しかし、それ以外はこうまで食い違っていてよいものか? 私の遺伝子はなぜ反乱を起こしたのか? おそらく、後天的に書き込まれる余白があまりに多いのであろう。 それは遺伝子の欠陥なのか、必然なのか。 こんなにまでもとの遺伝子の意に添わない遺伝子を複製したところで---もはや「複製」とはいえないが---、その遺伝子は本当に次世代へ継承されたことになるのだろうか? 遺伝子はその肉体的な特徴だけ伝えればそれでよいのだろうか? これだけとる行動が異なってしまう子の遺伝子は、親の遺伝子の理想的な複製を想定したとしてそれとはかなり違った行動パターンをとっているはずで、それがさらに次の世代へどのような状態で受け継がれるのか、あるいは受け継がせるような生殖行動をするかどうかも予測不可能なわけだが、それでほんとうに、遺伝子といえるのだろうか? ただの突然変異として位置付けてしまうこともできようが、それだけでは済ましがたい、余白の部分に後天的に不条理さから学んだことを書き込んでいった記憶が私にある以上、問題はそう簡単ではなさそうで、全く、余白の多い遺伝子など、なんのための遺伝子なのだろうと痛切に感じる。 無性生殖で増える菌に「死」は無いという。 今ある多くの生物は有性生殖という方法を選ぶと同時に「死」というリレー形式を採用した、とする「アポトーシス」という考え方があるらしい。 そうまでして次の世代へつなげたいものとは、何なのだろうか。 我が子を虐待する親だけが狂っているわけではない。私の親は、世間的には何の問題も無い親として振る舞ってきたものの、真っ向から我が遺伝子の複製であるはずの私の本質のすべてを否定し続けた。 お勉強ができてエレクトーンがじょうずで他人様から誉められる時には、それは親の手柄であり、誉めてくださる人々の前では必然的に私は彼らの良い子であったが、そんな、本質ではないどうでもいいことをなぜどうでもいいこととして扱えないのか、なぜ家の中でも勉強ばかりの非常識な人間だとしか見なされなかったのか、なぜ自分たちの行かせたかった大学に行っただけの私との全ての口論においていきなり「大学に行かせたばっかりに」と片付ける以外になかったのか、自分たちの環境の中で出来上がったはずの私の本質をなぜそこまで認めることができなかったのか、私には全く、理解できない。 おそらくは無意識よりももっと下の部分で、自分たちに自信が無いことの顕れなのであろうが、そこまで含めて、私には理解できない。 それは遺伝子のなせる業よりも外側の意識なのか?それを否定しても守りたかったものとはつまり、自分自身という遺伝子そのもの、それだけである。 自己完結で成り立っているような遺伝子が、なぜ次の世代の複製などに手をつけてしまったのか? そしてその複製の行程において出来たものはやはり不完全で、もはや自分達自身のような存在はかけ離れた作品となってしまっている。 思えば、私にはきょうだいが一人いる。そっちの複製状況の方は確かに良好である。あろうことか、近年はその上出来の複製を自分たちで誉めあげ始めた。持っていたはずの、そして私も教えられたはずの「美徳」を越えてしまっている。 しかし、二つの生物が協同して次の世代を複製していく以上、たった一つの複製で満足していては、結局やがて先細ることは言うまでもない。やはり、彼らが二つ作った複製のうちの一つが失敗作であったことは、あの遺伝子たちにとっての大きな痛手といえるのであろう。 アポトーシスという、その死へ向かうプロセスが生物の個体に組み込まれているものならば、その世代間を渡ってゆく遺伝子自体も、複製を繰り返し繰り返し、やがてはその種自体の「死」へ向かっていくように設計されているということなのだろうか。 とするならば、確かに、親の遺伝子は設計通りの不完全な複製によって、確実に種の変異の方向へ一世代分近づいた状態として、今わたしの中に在る。 |
| おまけ: なぜか医者から送られてきた、ほんとにアポトーシス起こしたほんとの細胞の写真 + テンパった送り主(実は同級生。)からの本文(抜粋)。。。。。 |