カラオケぎらい
〜思考試行錯誤〜


 ゆうべ西中洲にあるお店に連れていってもらった。

もと憂歌団の人たちも博多に来るたびに寄って歌ったりすることもあるようなお店だというだけあって、マスターを始めとするお店のスタッフの方々が楽器を弾いたりボーカル担当したりするミュージシャンでもあり、生カラオケを演奏してくれる。

お客さんも喜んで歌うらしい。機械のカラオケと違う空気を感じて、歌う人も一生懸命歌うという。だから聴く方も、聴く気になるのだそうだ。


  カウンターに二人ほど座っていて、テーブル席の方に私達ともう一組、二人連れがいた。ひととおり話した後、マスターは当たり前のように、その二人連れと私達のところに一冊ずつ、曲目の印刷された冊子を持ってきて、はい、この中からなんか歌って、と言った。

途端に私は困った。


  いつも、こうだ。お酒を飲みながらのおしゃべりにでかけただけの席で、歌を歌わされる。あるいは聴かされる。歌わないということはなかなかできない。聴かないということはもっとできない。歌わずとも、聴かされている間は、こちらのおしゃべりは続けられない。黙って、手拍子までしたりしながら、終わるのを待つしかない。終われば拍手などしてやったりする。


  なんで「歌」なのだろう?なんで、歌えといわれて、じゃあ、とある限られた曲目の中から人前で歌わなければならないのだろう?あるいは、悦に入って変な歌い回しに酔っている見ず知らずの人の歌を聴かされなければならないのだろう?冊子を渡されるたびに、マイクを回されるたびに、微妙なズレのある歌を強制的に聴かされるたびに、常に疑問を感じる。


  私は歌が嫌いなわけではない。嫌いなどころか、自分で作って自分で演奏しながら自分で歌う。ライブハウスでやらせてもらっているが、もっと一人でも多くの人に聴いてほしい、と日々考えている。でも歌わされるのは大嫌いだ。

曲目の載った冊子を手渡されるとき、学校の頃いちばん不得手だったことの一つの、体育の時間の短距離走をさせられるために順番を待って並んでいる時と同じような、気分になる。逃げ出したくなる。帰れるものならば文字どおり今すぐ帰りたいとさえ本気で思う。


  古来から音楽というのは人々と共に在った。確かに、リクツではない。もとから私達のいる場所に「在る」ものなのだろうとも思う。けれども、そう思った上でも、私はどうにも、体に入った無理な力を抜くことができない。


  歌えと言われて困るのは、すぐには反応できないからでもある。実際ページを開いて並んだ歌のタイトルを見てみれば、大抵は知っているものだ。その場の空気を壊さないためにも、その場を早く凌いで自分に回ってきている重圧からするりと抜け出すためにも、早く適当に選んで歌ってしまいたいのだが、気持ちが焦れば焦るほどに、それらの一つ一つについて、これは私には似合わない、この歌が言っている内容は今の私の気分ではないので人前で歌う意味が無い・・・と、本気で取捨選択する瞬間が重なってしまって、ただただ意味も無くページを何度もめくりなおすということを繰り返すだけになり、まったく「選曲」に関してフリーズ状態に陥ってしまうのだった。


  深刻に考え過ぎていると言われようが、気取っていると言われようが、誰もが、自分の苦手な料理を勧められて一瞬箸をつけるのを戸惑うように、嫌な虫を見た瞬間に嫌悪感をもよおして体を固くしてしまうように、私は、たった今この冊子の中から選んでさあ歌え、と言われてそれに従うということに嫌悪感を感じるだけのことなのだが、これがなかなか理解してはもらえない。


    仕方なく、歌うことになる。勧められたもう一組の人たちも、どんな意識でいたのかは知る由も無いが、しっかりと歌っていた。私の連れは常連でマスターとは長い付き合いであり「聴く」専門だという約束が出来上がっているようで、一切勧められることはなかった。私ももちろん避けたかったが、歌を歌ってライブハウスで歌ってる人なんです、などと紹介してもらっている手前、歌えないとは言えない。

最近は、逃げられない場面だと思うと以前に比べればあまり抵抗はしなくなってきたものの、歌い終わっても、誉められても、気分が晴れないことには変わりが無いのだった。

私もあとの二人も、結局二周りさせられた。今日はレベルが高かった、などと言われて、あの二人の人たちはどう感じたのだろう。

良く言ってもらっているのだから、もちろん喜べばいいのだ。でも私の気分の中では結局、短距離走の後の、もう当分はやらされることはない、という安堵感が増えただけで、嫌なことをさせられたという意識は消えなかった。


    人からどう思われていようが、歌って発散するタイプの人たちは、古来からの音楽の、ある意味、原点を見据え、音楽の本質を素直に楽しめていることになるのかもしれない。

でも歌をそのようにのびのびと楽しむことは私にはできない。いつからだろう。あるいは始めからなのかもしれないし、歌を作るということを意識し始めてからなのかもしれない。もはやそれは私自身にも分からない。


    私には、全ての歌は重々しくかつ繊細な、気持ちを乗せるための道具である。既に形を持ったあとの歌のその効能は、それを扱う人による。

気持ちに沿わなければ、全くといっていいほど機能しない。しかし、ぴったりと反りの合う道具を見つけると、それはその人にとっての一生ものである。他のなにものにも代え難い。

売れ筋のものだけが大量に生産されてそのターゲットに向けてがんがん発信される時代にあっても、自分に合う道具を求める人たちも、多くはないがいるはずだ。


私は元々自分に必要な道具が売っていないので自分でそれを作り始めただけであり、今はその道具を求める若干の人たちからも見えるように、ライブをしたり、ホームページを立ち上げたりと、細々と看板を出し始めたようなところである。

私はただ、気持ちにぴったり沿った形の道具を作り出し、更にはそれを自由に扱い使いこなせるような、「職人」になりたいのだ。    




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