夜明けの気づき

〜思考試行錯誤〜

 

昨日の日曜日は、久しぶりに、二日酔いで丸一日寝て過ごした。
土曜日はいつのまにか、暴飲してしもうた。

私は、歌を作って歌っています。仕事は別にあるけど、
心の中のメインは、歌で、絶対、もっと多くの人に
聴いてもらえるようになりたいと思って色々
がんばっている。

けど、あたしは学生でもないし、フリーターでもない。
まずとっかかりとしてライブ聴きに来てくれそうな友人・知人
なんて、仕事・家庭の都合で急にいけなくなった・・・
などというキャンセルはごく当たり前。

でも、学芸会ではないのだから、友人たちを無理矢理に
来させて座っといてもらうなんていう聴かせ方は
したくない。なんとか、地道に、一見さんの中で、
ちょっといい反応してもらえると、やはりこれを
繰り返していきたい、などと思う。

当然、自分を支えていく意識として、あたしの歌は
あんたらの歌とは違うったい・とかいうふうには
しっかりと思っている。
それは、歌の骨の部分についてのこととして。
歌を作ったり歌ったりする動機づけの部分として。
ちっちぇー目先の「人気」とかいう体裁などではなく。

が、飲み屋で会うミュージシャンたちの中には、
自信や自意識に満ち満ちているぶん、それを刺々しい
目つきやコトバにしてしまう人たちがいる。

そういう、しょうもないやつらが、いつもお義理で
来てくれるような小人数の自分の固定客を自慢して
お前には客は呼べんだろー・みたいに
ゆったりするだけで、結局あたしはすごく
むかついたりしてしまう。

いかにも、こちらを傷つけようとして・だとか、自分が
痛いところをつかれかけているのでその前に
相手の急所をついとこう・みたいな意識からだとかで、
この事実を口にすれば、こいつはぐうの音も出ないだろう・
みたいなちっちぇー態度なわけだけれど、
そういうところにすごく相手の姑息さを感じるというか、
だから感じておけばいいだけなのだろうけれど、
あたしはいつもどうにも、そういうところが、
哀しいというか、もう、どうにもならない気分に
襲われる。

どうしようもないところが、二日酔いの
気分の中、更なる悪い要因となって、
アタマがグルグルしてしまって、
何も食べたくない。


本当に、後味の悪すぎる日曜日だった。

その二日前の金曜日に、綾戸智絵の
ライブに行って、その会場でNHK総合テレビの
授業の番組が本になったのも売っていて、
衝動的に買っていたので、
いやな日曜日の夜、それを読み始めたのだった。

なんか、いやーなグルグルしたアタマの
まんまで、ずーっと一気に読んでしまった。


そして、なんか急に、あたしは、もう自分の
言動全てに、「理由」を持つことを辞めよう、
と、ものすごく急に、固く、思ったのだ。


別に、綾戸さんの本の、このコトバにピンと
来た!とかじゃなくって、なんか、こういう、
いやな意識の中で必死でグルグルを
鎮めようとしてなんとなくあーあ・・と
かっこいい人の本を読んでいて、そういう、
部屋も片付ける気力も体力もない状態で
ぐだーっと横になったまんま本を開いている
自分の姿というか、そういうのも
全部含めた状況自体による必然的な
タイミングだったんだと思う。

あたしは小さい頃から、自分がものすごく
嫌いだったんだけど、正確に言えば、
回りから見られる自分が、嫌だった、ということ。
それは、具体的には、親戚の人たちの声で、
自分のことを「さっちゃん」と呼ばれる、
そのサッチャンという音自体が、もんのすごく
鳥肌が立つくらいに嫌だった。
その人たちが「さっちゃん」を見ている「目」
までがその音に入っていたから。

親の言うことを聞かなければならない、
嫌なのに結局言うとおりにして、
まーお勉強のできるいい子・とか言われている、
そういう状況の中で、「人がやっているから」やって
いい、「人がやってないから」やってはいけない、
という大人の基準が、どうにも解せないままだった。

ので、ある時、大学に入ったすぐの頃だけど、
「人が」やってるから・ではなく、自分の中に
何か理由があるかないか、それを行動の絶対基準に
しよう、と決めた。実際すべてにそれを実行
してきたし、そのおかげで、もちろん
親などに代表されるような旧態勢の人々からは
かなり嫌な反応をいつも受けていた。

けど、それでよかったというか、とりあえず
今の段階までの私が確立できたのだと
思う。もう、今の私以外の自分の姿
というのは、良くも悪くも考えられない。

けど、ある程度自分が確立できてきた今となっては、
今度は、「理由」というものを探し過ぎると、
そういう、自分ではどうにもならない
哀しい・って感じるようなことが、耐えられない。

なんでこの人たちはこんなコトバを吐いて
ヘヘ・っていう気分になるだけで平気で
いられるんだろう、そこにどんな理由があるんだろう、
とか思い始めて、自分一人で吐き気をもよおして
しまう・・・

ヘタに理由らしきものに辿り着いても、今までは、
例えば、始めに私が自分で書いたような、
きっと自分がちょっと痛いところをつかれそう
になったので先回りして攻撃してきたんだろう、
とか、そういう、理由らしきものを自分で探して、
それは状況そのものを解釈して自分を納得
させるために役立っていたんだけれど、
もう、そういうことばっかりで、そういうことが
多すぎて、あたしにはそれが哀しすぎて、
もちろん、そんな私の理由づけはその人には
意味のないことであって、もう、
そんな理由なんて、考えるだけ結局自分が
哀しくなってばかばかしいもんなんだと・・・・
つくづく、もう、ひとりでくたびれ果ててしまった。

おまけのおまけに、その嫌なことの一つが
あった土曜日の夜、唯一、一瞬だけほっとした
気分になれたことが、ちょうど一年前に
ちょっとシガランダ人が「久しぶり・・・」と
声をかけてきてくれたことで、皮肉なことに、その人が
去年私にちょっかいをかけてきたその状況こそが、
私に言わせれば、全く「理由」の「リ」の字にもならない、
私のことスキだけどもっと好きなカノジョがおるっちゃん
ホントは・という、殴りたくなるような理不尽さだったわけで、
すぐモメたけど、1年近く会わずに過ぎてみると、
結局ワタシにも、「理由」なく、
その人のことが一番好きでほっとする何かも
あったりとかしてからに・・・・・・・・・・・・・・・・・・


「理由」を求めることが無駄なことだった、
というのではなく、今までの私には必要だったけれど、
全てに「理由」を求めてきた私だからこそ、
もう理由は、自分の理由も、人の理由も、
もう考えなくていいのではないか、と、
思うに至った・・・のだった。さっき。


なんっていうか、衝動買いはお金を無駄に
するからいいことではない・とか例えば
一般的には言われるけれど、自分の感覚
自体をある程度信じられるようになってくると、
むしろ、その瞬間のヒラメキに頼って
衝動的に買うことも、決して悪くはない
ことになってくるわけで、現にそういう買い方を
することが私は普通になっているんだけれど、
「理由」についても、そういう感じ。

綾戸さんの本も、衝動的に買った
んだけれど、「衝動買い」ではなかったわけで。

なんか、急に来るんだなあ、と思った。
こういうことって。
んで、けっこう、確信なのだった。
多分、結局いつも考えていたことなんだろう
と思う。ふっ・・と臨界点に達する、というか、
意識の上に顔を出す、というか、そういう感覚。


もうね、くたびれた。
風呂にも入っとらん。
今から入る。
今日は仕事には行かない日。
もう、今日は髪型もどびゃーっと変えに行く。


今朝は寒くない夜明け。
午前6時半。博多の空はまだ真っ暗。

 

 

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