| 流し雛 〜思考試行錯誤〜 |
| 私はもともと、すぐめそめそするし、お化けと蜘蛛と高いところと、ついでに注射がとてもこわいし、人の言葉や態度を考えすぎて疲れてしまうほどに気にしてしまうし、へこむと食事も忘れてしまうほどにとことんへこみ続ける。ごはん食べるのも遅いし方向音痴も甚だしい。 小さい頃から友達に何か言われてそのまま泣いて帰ってきては、ぼーっと言われっぱなしで今おまえがいかに損をしてきていることか、と親から説かれてそうなのかと考える繰り返しであった。親戚の人間たちからはぼーっとのろまなさっちゃんとしてよくケラケラケラと笑われていた。その声は今でも不快な響きとして残る。 外ではそんなのんびりした無意識の自分を出せば出すほど、あんたはそんなふうに見えないからその今の態度は嘘だろうみたいなこととか、かわいい子ぶった言い方するなとか言われるのが常であったし、その無神経な言葉がそのたびとても不快だったので、自分が本来感じて無意識に表に出してしまう言動というのはいかにも外見がかわいらしい子にしか似合わないものなのだと学習し、常に自分の外見とかイメージをどう持たれているかを計算しては、それに合っているらしいような、一般的に女性的とされるイメージから外れたようなことでも口にしてみたり、あるいはなんとかぼーっとしたのろまに見られないように威勢のよさそうなことを言ってみたりするようになってきていたんだと思う。でももうやめた。 女性が既成の女性的なものにすがってその枠に自分をはめこもうとする姿勢は確かに嫌いだったので、その枠からはみ出している自分の姿も自分自身でだんだん自然なもののような気もしてきていた。でももうやめた。おまけに自他に一貫性を求めようとする自分の性格からも必要以上に自分を律して無意識に内面を出してはいないかチェックし過ぎていたところがあったと思う。でももうやめる。 人の言うことを人一倍気にするくせに、それを見せるとやたらと意外だとかわざとらしいとかいう反応をされて不快になるわけだから、気にするがゆえにそんなの気にしないという態度をとることで自分を護るという、ややこしいけれど本人としてはとてもとても真剣にあみ出した技でずっとやってきた。でももう、すぱっと、やめた。たぶんこれからは、まったく「あたし」でいくんだろうと思う。 嘘みたいに、何かが解けたかもだ。 たぶん最近の2回の入院で自分の変化してきたところがはっきりわかったのが大きい。 事故に遭ってしまって救急車で運ばれてからしばらく入院していた。いきなり自由を奪われた状態で、膝も骨折していたしかなり不自由な時期が続いた。退院してからも1年数ヶ月間、左膝には支える釘が入ったまんまで、このごろそれを抜く手術を受けた。 前の入院でかなりはっきりと感じていたけれど、不自由さや歩けるようになるまでのリハビリやその痛みといった、克服しないといけない目の前の箇条書きをこなし続けるのが先で忘れかけていたその感覚が、今度の入院で思い出されてやっぱりはっきりした。あたしは自分を押し込められるのが嫌でその環境から自由になるために先回りし続けてきたんだ。そして計算してから決める自分の態度によってまた違うところで自分を押し込めていたんだな。 もともと、手術には何の思い入れがあったわけでもない。釘が入っていることで別に痛みや自覚症状があるわけでもなんでもなく、一応抜いたほうがよいものだという説明を聞いて納得して手術を受けることに決めただけで、何か些細なことにも一つ一つその意味を探してこれで何かが変わるとかなんだとかいうような意識は、無いとも感じないほど当たり前に、無かった。 怖がりだもの、簡単な手術ですよなどと言われてもしっかりとビビりながら、点滴をつけられ、運ばれ、麻酔かけられ、切って抜いて縫われた。 手術が終わってからしばらくはぐったりしていたわけだけれど、やがて体調も戻って、そろそろ退院だと思うと、ああまた日常の煩わしさと向かい合わないといけないよなぁ、とまるで脇に積んでいた仕事を、もはや拒絶する気力も無く自分の持分としてよいしょと膝に抱え込むような意識で、手術前の感覚を引き戻そうとした。 ところが。 その感覚が戻ってこない。 また向き合って一つ一つ解決していかないといけない長い道のりだ・・・と感じていた記憶だけはあるけれど、ん?解決って、何からやるんだったっけか?さしあたってまず向き合うべきことっていうのはあの大量の重苦しさの中のどの件だったんだか・・・? だって、学歴が高すぎてどうだとかこうだとか吐き捨てられてしまったあの人の件は小さいことでもう済んだも同然のことだし、あの友人たちの件については私がこういうふうに考えればいいことだし、あのいろんなところでずっと続いてしまっていた仕事の閉塞感については今度わたしが率先してゼロに戻して主導していくほかに道は無いわけで、あの好き勝手なことを言う同僚たちだって水に流してつきあおうとしてくれてるところもあるって理解しておけばいいだけだし、あのひとやこのひとから簡単にすぐ「そんなもんよ」とカチンと来るほどに知ったような口をきかれてしまうのは、教えといてやったほうがよいと私が感じさせているからにちがいなく、引きずっているあの人のことについてはどんなにずるい或いは無責任な態度をとられて私が悲しがろうとももうリセットすべきだったし、そのこっちの悲しがりようを無視してあたしゃー子供ができただのと一方的にはしゃいできた無神経な友人には別に今までどう頼っていたというほどじゃないわけだし今回もただおめでとうと言えばよいことであって、あとのあの件は・・・・ 縮めたい距離が埋まらなかったりどうしようもなく言葉が重かったりして常にずっと同じような悩みを確かに抱え込んでいたという記憶のある事たちが、気がついてみたらすべて見事に「済」印のほうの箱に入れられていたような感覚。一つ一つがこの世界を暗くしてこの呼吸を小さくしてねじれていくほどに重たい重たい重たい事柄ばかりであった。なのに・・・? 病院の中の生活は、小さい頃の精神的な環境にとても似ていた。 今の段階ではまだベッドから急に起き上がってはいけませんと言われるとか、食事を食べれるようになったら体にいろいろつながってる管のうちの一つのこの点滴とってあげると言われて針はずしてほしさに必死で食べたりとか、投与される薬の性質にしろ、はい採血ですよと来られるタイミングにしろ、その根拠となる知識というのがむろんこっちには無くむこうにとってだけ当たり前のものとして、まずある。 もちろん親切にその理屈を教えてもらえたにしろ、とにかく、こっちは知らない。相手は知っている。全面的に頼るところは相手の説明のみである。規則も食事も有無を言わさずそこにいるものが従う大前提として与えられるもので、それはまさに、物心ついて始めに(ほんとうはつく前から)出会っていた環境そのものだった。 しかも、そこからは抜け出しようもなく、いろんな制約や指示をしにやってくる側の人たちの言動には人として快くないものも少なくなく、しかしこの人たちの言うことは聞かなければならないのだろうという意識もあり、しかしそれは自分というものが出せない状況のもとであり・・・というように、これほどまでに子供の頃と重なる環境はほかに無い。 始めに入院してほどなく、わたしはそれまでに必死で少しずつ塗り重ねて分厚くしてきた鎧を一気に引き剥がされ、小さいときのどうにも絶望感にだけ満たされていた頃の感覚が急に戻ってきたのを感じた。 入院してからは何かにつけ、私は目に涙をにじませているか無抵抗に言いなりになっているか時々その不条理に爆発するかでしかなかったように思う。泣いて文句を言っている私に何も言わずフンといかにもしらけた顔で行ってしまった医者もいたし、事故で入ったから心構えができてなかったんでしょうねと涙が止まらない私の横でずっとつきあってくれた看護婦さんもいた。 それは、私がライブハウスで弾き語りをしているということをその看護婦さんが知ったときに驚いて言った言葉で初めてはっきりと自覚できた。「つぼうちさんが人前で歌を歌うなんてまったく想像できないよね。だってこんなにおとなしいのに。」 こんなにおとなしいのに。 私はほんとうに、「おとなしいですね」と言われつづける子供だった。親や周りの大人たちにとって、おとなしい子供は出来の良い子供であった。そう褒められて嬉しいわけでもなく、まるでサーカスの動物たちが芸のあとさきに檻に入れられている姿を覗き見られてかわいいと言われているような状態であった。 小さい頃。親戚一同でレストランに食事に出かけたことがあった。それはまだ、大人が座る椅子に腰掛けるとテーブルが自分の目線にとても近いところにあるほどの背丈の頃だったと思う。子供には料理が出てくるまでの時間など、ただただ長いだけである。歳が近いいとこたちは、席についてしばらくするとすぐに「遊んでこよう!」と椅子を滑り降りてたたたたっとどこかに走って行った。ふだんめったに入ることのないしゃれた場所だったはずの店内は子供にとってほんとうにわくわくする場所であった。「あたしも!」と椅子の右側に降りようとした私の左腕を隣から父がぐい、と掴み、耳元で低くこっそりと、とても良いことを教えてやるときの声で言う。「こげなところでうろちょろするとは、おかしか。」 あらゆる楽しいことはすべて、そのようにして止まっていくものだった。その店に行った記憶も、もう楽しかったでもなくおいしかったでもなく、ただただ、目線に近いテーブルをじいっと見つめて大人たちの話し声が聞こえる席に座らされていただけの、暗く退屈な場面でしかなくなる。そしていとこたちからは、さっちゃんは過保護だから親の側にいたがる、とまた繰り返される理由の一つになっていく。カホゴという言葉の意味も知らないうちから、自分はカホゴであるらしい、と覚えていく。 あの腕を掴まれた瞬間に起こるいつもの絶望感と、走り回れる子達への羨望とで、私の幼い記憶は構成されている。そしてまた、お宅のお嬢さんはおとなしいですねえ、まったくうちの子は騒がしいばかりで、とよそ様から眺められる。親は満足していく。あの時の看護婦さんの「おとなしい」という言葉は、そんな、見えない鎖につながれてもう逃げ出す気力と発想さえ奪われていたような私の原始的な記憶を呼び起こし、ああベッドの上の私はやっぱり間違いなくあの時の絶望感の中にいたのだ、と実感できた。 自分の置かれた他の子たちと違う環境が嫌で嫌でそれに従う自分も嫌で、逃げ出せばいいのに逃げ出そうともしてないじゃないかというような安易な挑発をする回りの言葉も嫌でそれを甘んじて受けている自分もまた嫌で、とにかく私はそんな飼いならされたおとなしさを外から外から見ようととにかく意識して意識して、改造につぐ改造を試行錯誤しながら続けてきた。無邪気にはしゃぐ子供らしい子供たちを心底羨ましいと思って眺めながら。 改造はあるときには行き過ぎ、あるときにはうまくいき、中学、高校、大学と、周りからの私へのイメージはそれぞれの段階でかなり違ってきていたようだった。進学校だの地元で名の知れた大学だのに行ってるコには見えないね〜と言われるととても嬉しかったが、当然それは親にとっては恥であった。非常識の塊だというような罵倒をされたこともあったが、我が子には何でも言ってよいとしか思っていない親が自分の発言の行き過ぎを認めることはありえない。 そんな葛藤も取り込んで長い長い努力の積み重ねによって形成してきた私の言動様式と思考回路が、大した長さではない病院での生活でこうもあっさりとざっぱりと拭い去られ、おとなしいからねといわれるまでにむき出しになってしまった自分の核の部分を見つめざるを得ないという状況は、消し去るわけにはいかない己の来た道とまざまざと向き合う機会となった。 自分を押し込めていた原初の環境と、そこから逃げて自分で作って固めてきた第二の環境。どちらも結局自分を押し込めていたということに気づけたのは、原初の環境に近いところに戻った入院生活があったからであり、そこで原初の不快感を再体験し、同時に、その原初には持っていたそして第二の環境では押し殺してしまっていた、無意識の自分を飾りようも無くひとに見せるという、諦めた中にも一瞬力を抜いていられた感覚をも実感できたからなんだろう。私はそもそもよく泣き、いろんなものを怖がり、いろんな人と仲良くしたがり、結果的な損得を考える発想もできずにただちまちまとやるべきことをやっていくタチの人間だし、占いを気にするし、そう見えまいと見えようと、そうなのだからそうなのだった。 振り返れば、第二の環境での無理も相当に自分を疲れさせるものだった。なんとなくその場に気を使って、話に入ってない人が笑うようなことを言おうとして結果的にはふざけたことばかりしか言わない人間だとされたり、また自分の話をしたがってる、などと言われたり、とにかく付き合っていかなければいけないそんな人たちと話しているときというのは耳鳴りのように後ろのほうでピーーーンと張った音が鳴っていて、一人になってみるとその自分が張りあげていた声が消えた無音のばかばかしさだけが残っていた。 考えれば、女性が女性的であることが嫌いだったのではない。男性らしさ・女性らしさは社会の中で決まっていくものであって、その社会の中で生まれ育った自分が直感に近い深い部分でその制約を受けていないわけがない。私自身もじゅうぶんに、この社会の中の男性らしさを男性らしいと感じて好感を持つし、女性らしさを女性らしいと感じて素敵だと感じる。 私が嫌いだと感じていたのはもっと浅い部分で、そこにはまっていない自分を何か隠さなければならないもののように感じる人たちが、周りにも自分にも一時的に表面的にのみ嘘をついて取り繕って自分ではない「らしさ」に合わせてその場しのぎの好感を得ようとするというそのおぞましさに嫌悪を感じていたに過ぎない。 だからもうやめた。 ギネスに挑戦しているかのようにもう長いこと、膝に釘が入ってからぐらいのことだろうか、今まで毎晩いろんなことで涙が出ていたけれど、そして言ってしまえば手術の前の夜にも自分は独りだのなんだのとしつこく涙は出ていたけれど、その後みごとにピタリと止まった。今にじむのは、歌を聴いたときだけだ。 もういい。なんか知らんけれどとにかく、もういい。はじめから力を抜いて生きてこれた人たちも大勢いるだろうけれど、いったん入れて抜いた力は、とことん抜けていく。万が一また入りそうになった場合の抜くコツの自覚ももてた。 あの釘を抜いてからぱっさりと第二幕が始まったかのように、気がつけばそれまでの闇のような霞のような視界をさえぎるものが無くなっている。この気分の転換のしようっていうのは、人に話せばなんだか見事に釘という異物が抜けて体調もすっきりしたのね、というような解釈がされやすいところで、まあそれでもいいかなあ、と思えるわけで、それはまるで、己の災いを移して川に流してしまう流し雛のようである。まあ流される雛の立場に立つとかなり不条理な話ではあるわけだけれど、あの2本の釘があたしの体内の毒素を全部持って出てってくれたようなそんな感覚は確かに覆っている。桜は明日、満開だそうだ。 2004.3.28 |