| 捨てた。 〜思考試行錯誤〜 |
| ずっと思っていたんだけれど、それはとうとう7月にそうなった。 自分の部屋を死ぬほど片付けた。 目をらんらんとさせて、捨てまくった。 記憶に触る全てを、気の済むまでゴミ扱いした。 自分の中から何かを剥ぎ取りたくて剥ぎ取りたくてしかたなかったんだなあ。 ここ数年、少しずつ少しずつ、剥ぎ取りつづけてはいたけれど、やっと最後の最後の 大きなカサブタがきれいに取れて、つるんとしたピンクの新しい肌が現れた。 ゴミの日になるたびに、大きな袋を両手に下げて階段を何往復もした。 中学の頃からテレビやラジオで録りためていた歌がびっしり入った、 数え切れないカセットテープもビデオも 歌のノートも靴も帽子もバッグもスーツも本も写真も、ごみの袋に入れて運んだ。 夜中になるとごみ回収車が来て、それらが本当にごみになっていく音がしていた。 そしたら、「今」と「イヤじゃない昔」だけになった。 画期的。 部屋の中で何にも気兼ねすることなく動けるようになった気がする。 そうよ。捨てればいいのよねぜんぶ。 モノを捨てられるというのも、飽和状態の日本にいるがゆえに選択できる対処法なのだ。 捨ててこれだけ楽になれるんだもの、捨てればいいんだ。 そしたら今日は、自分の中で不思議なことが起こっていることに気づいた。 自分の研究室に置いている学部の頃のノートとか試験問題とか、 院生の頃からコピーしてた論文とか、 そういうものたちも心の中でほんの今日まで、全部ゴミ扱いされることになっていて、 それをゴミとして扱おうと手に触れること自体がとても忌まわしいことでさえあったために 今日まで引き伸ばしてきたほどの重大なことであったのに、 今日とうとう意を決していざ触ってみると、驚くことにもうその気持ちが、消えている。 ノートや論文の余白に書き込んでいるその頃の自分の字の癖とか、 友達のノートのコピーとか、 どうしようもなくなって別れたひとがよく論文の内容を私に説明してくれていた 紙の切れ端とその文字とか、 その後に受けざるを得なかった嫌な授業で読まされた論文とか、 それは最も記憶に過敏に触れる部分の一つであり、これまでもう何年も 本当に見ることも触ることもできなかった、 そんなものであったはずなのに、そして、それも自分から引き剥がそうとやっと決心して、 自分の部屋でまず捨てる勢いをつけたところで臨んだ大仕事であったはずなのに、 既にピンクの新しい肌になって毎日気分的な収支をゼロか少しプラスぐらいにして 暮らしている私には、それらは大して重苦しいものではなくなっていて、 今さら何の感慨を呼ぶほどのこともなく、かなり淡々と、これからの勉強のために もう一度読み直すべきものと、 全然読んでなかったからまあ近いうちに読んでおくかと思うものと、 自分がやる授業に役に立ちそうだと思うものと、 そして時々無表情にずぼん、とゴミ箱に突っ込むものとに、整理されてゆく。 嘘みたいに、自然に手に触れ、 自分なりに一生懸命勉強していたもんだとか、 理解していないままに先生の言葉をメモっているところだなとか、 一応手には入れておいただけの苦手な分野のものだけれど 今度本気で向き合ってみるかなとか、 ごく自然に積み重ねてきたものとして扱っている。 ほんとうに、目をそらして自分の中で逃げつづけてきたものに、 こんなにあっけらかんと向き合えるまでに確実に変わっていることの不思議。 急な変化であったのか、 膨大な時間の積み重ねの末にやっと目に見えた大変化であったのか、 もっと単なる時間の問題に過ぎなかったのか、 自分でもわからないし、そのどれでもあるような気もする、ほんとうにありがたい今夜は、 月がまんまるで、真っ白で、もう鈴を転がすような虫の音が聞こえている。 2002.8.12 |