●おたいせつ●
〜大切なこころのおうた〜

 

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「おたいせつ」・・・・・いい言葉。

聖書が初めて日本語に訳されたとき、LOVEという言葉は、まだ「愛」という訳ではなく、「おたいせつ」という表現であったそうだ。

柔らかな、「まんなか」の部分が見えるような、穏やかな響きだ。

歌を作って聴いてもらうという行為は、私にとっての「まんなか」をさらけ出すということで、それは私にとっての「核心」であるので、それはなかなか恐くてできなかった。

小さい頃から歌を作ってはいたのに、歌についての物心とでもいうものがついてからというもの、歌という何がしかの形にしはしても、それはまだ自分の本当の「まんなか」にある「核心」に触れたことにはなっていないようなものばかりで、とてもとてもはがゆかった。

焼きあがった陶器をばりばりと縁側で割り捨てていく気難しい陶芸家のように、私は歌を作っては捨て、作っては捨てていた。


歌に限ったことではないと思うが、「表現する」ということは、心の中のもやもやとしたものを形にするということで、それは自分の内側と外の世界とをつなぐことでもあり、もやもやとしていて自覚できなかった自分の感情を自覚できるようになるということでもある。

それが嫌な感情であればなおさらのこと、自覚して客観的に外から対峙できるととても楽になる。もやもやとしたものが心の中で自分と未分化なままの状態から逃れることができさえすれば、本当に楽になれるのだ。

心のある部分に重なった歌を聴く時の幸せといったらない。哀しいことを歌ったものであっても、それは変わりない。そうなのよ、と深く頷いている。口ずさんでいる。

そんな気持ち良さの真っ只中にある瞬間には、その歌が誰の作ったものであろうと関係ない。作ったのが自分以外の他者であれば、その人の世界の受け止め方に共感し、その歌によって自分の中のもやもやと対峙することができたことに、また、その歌によって未分化であったことにさえ気づけずに鬱積していたものと分化でき、楽にしてもらえたことに、感謝する。その歌を生み出してくれたことに感謝する。

そうやって他者たちが私の心のすべてのもやもやを私から引き剥がし、やっつけてくれるならば、私はただただ、すべての歌を聴く側に座っていよう。

けれども、どうしても、そうはいかないのだ。どうしても、埋まりきれないひだが残る。埋めてもらえるものがないところは、私の歌が埋めてゆかざるをえない。私は、自分の歌をそこに位置付けている。

そして、私と同じような感覚の人が必ずいるはずだと確信する以上、私の歌に頷いてくれる人も必ずいるものだと確信している。だから、一人でも多くの人に聴いてほしいと思っています。



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